静岡撮影

肉体について。

 

東京の時に

覚えているのは

大都会で

すっぴんで歩き回ることに

最初は抵抗を感じたけれど

それはあっという間に慣れて、

静岡では、ますます気にしなくなった。

 

化粧をしない朝の楽ちんさと言ったらない。

眉毛さえ書かないことも普通になった。

 

男性二人と私、女性一人という区別も

あんまり意識に登らなくなった。

性別を意識しなくてよい親密な関係性は

いいものだと思う。

 

撮影後やエクスプレッションの後は

皆と平安や内なる繋がりを感じて

エクスパンションするんだけど

その後、トイレや洗面所などに行って

手を洗うときなんかに鏡に映る自分を

認識した時がいつもエクスパンションが

切れるときだった。

 

白いものが混じった髪の毛に

みすぼらしく見える自分の顔。

こんな醜い顔で至近距離で

ハグしたり

みんなと目を合わせてたのかって

いつも少なからず失望する。

無価値感や欠乏感を感じる。

「これが間違いなく

ワタシなんだ!」と叫んでる。

あきらかに意図的に、自我を

選ぶことを決断したことを感じる。

好き好んで。

自分を身体に閉じ込めておきたい

強烈な力動。

まだ女でいたい、女として認められたい、

この仲間たちからそれを得ようとするのは

まぁだいたい諦めてきたけど・・

そういう悲しみ。

 

それでいて移動中、

生理が始まりかけて

ふたりを車で待たせて

あたふたコンビニで

ナプキン買って

トイレに駆け込んだときとかは

すごく恥を感じて、女であることを

呪っていた。

 

私は母から、父や弟の前で

そういう性的なこと、生理のことを

話題にしてはいけないと育てられて

来たので、最初は何も言わなかったけれど

けんたさんにどうしたのかと

聞かれて、隠してるのもな・・と思い

後ろめたさもありながら

思い切って説明した。

でも、話した後はなんでもなくて

なんだ、別にたいしたことないじゃん、

何を真に受けて信じていたんだと

ちょっと解放を感じた。

そういうことに罪や汚れを見ていることも

よく見えた瞬間だった。

 

ただこの東京、静岡の旅を通じて、

その旅だけじゃないけれど、

本当にラファエルとけんたさんから

どれだけ励まされ、支えられたことだろうと

感謝するとき、それは個人的なものから

発生していないことを感じる。

 

身体を聖霊に明け渡して、彼らの身体が

聖霊のコミュニケーションの道具として

使われているのを深いところで感じる。

それで、

私も自分の身体が聖霊

コミュニケーション

ツールとして

兄弟のために使われますように、

それを望みますと

心の奥から言葉が出てきた。

それは初めてのことのように感じた。