今、現れているものを受け入れる

 

随分とMとの関係のレッスンに

抵抗していた。

皆さんにシェアすることも含めて。

献身チームからはずされるのでは?と

いう被害妄想、恐れもあった。

恋愛にハマるようじゃ、

まだ準備できてないんだねって。

 

のりこさんがおっしゃっていた。

神に本当に従うのなら

今、現れているもの(レッスン)に

対して、「えええ!?やだ」とか

言わないと。

 

そうです。はい。従います。。

 

リトリート中、

兄弟に対する羨ましさの

想念が出てきていた。

 

もちろん献身の意志がある

前提のことだけど

ご主人との仲も問題なく、

関東に住んでいて(集まりやすい)

経済的余裕もあり

子供がいないか、自立していて

仕事などで時間が縛られていない。。

 

のりこさんに話したら、

それは他者がいる前提だよね。と。

 

そうだな。。

葛藤するときは、いつも

他者がいる前提。

 

他者がいるって被害者意識を

持ちたくなるけれど、 

明らかに自分が分離の欲望を

支持した結果。

 

そして、献身するには条件に

左右されるというのは自我の言いはり。

ただ覚悟ができてないだけ。

 

私はこれを撤回したいです。

 

献身したいです!と鼻息荒いのも

違うし、

私を使ってください!と

営業マンみたいになるのも違う。

 

空になって待機する。

そんな感じがする。

 

ラファエルに、2日の日本家屋

リトリートに日帰りで来てくれないかと

有難いことにお声がけされた。

 

もちろん、参加できたら嬉しい。

それには息子を夜間に預けなければ。

結果、両親の都合が悪いのと

母から「反対」と言われて

参加はできなかった。

 

ジャーナルライティングでの

聖霊の言葉は

行ってきなさい。だった。

 

2日の日、私はなぜあそこではなく

ここにいるのだろうと思った。

 

母からの反対という言葉。

 

認めるのは負けだけど、

私が反対してるんだな。

 

母が反対してるのではなくて

私が。

 

私は自分が完全に癒されることを

自分に赦したいです。

 

聖霊、どうか助けてください。

 

葛藤するとき、

それは「私は愛されていない!」と

いう愛と助けを求める懇請なのだと

浸透してきている。

 

そのときにリトリートで感じた

私は神から愛されている感覚を

思い出すと安心する。

 

神様、ありがとうございます。