2月もオンライン合宿開催します✨

🙌😇2月もオンライン合宿開催します🙌😇
✨2/24(木)12:00〜27日(日)16:00✨
オンライン合宿の参加は締め切りがないので
いつでもお申込み頂けます🕊
🌼まず雰囲気が知りたいという方には…
1月オンライン合宿の動画視聴申込みができますし
🌼2月オンライン合宿も生で視聴参加や合宿後日に
動画を繰り返し視聴することもできます。

2022.1月葉山合宿 DUNE映画鑑賞

合宿中、映画鑑賞すると

決まったときから

DUNEが良いなと思っていたので

それに決まった時は嬉しかった。

 

のりこさんとラファエルによる

開始前のコメントで、

これは聖霊と一緒に観れば

一生モノの映画になり得ると

聞いたり、主人公ポールが

絶体絶命の時も諦めず、

最後の瞬間まで

チューニングすることに命を

懸けることをきいて

エクスパンションしたし、

期待した。

 

でも、いざ見始めたら

イライラばかり。

 

ポールはできるけど、

私は無理だ。

 

なんだよ、壮大すぎて

私の人生にはなんも

参考にならねーわ、とか。

 

文句しか出てこない。

 

それを途中、エクスプレッション

する機会があったのでした。

 

ここでも、「私だけはだめだ祭り」が

したい誘惑に乗っていた。

 

今ものりこさんに言われた言葉が

響く。(ニュアンス)

 

ポールに対して

「おめー、そんな決断の場所に

いるんじゃねぇ」

引きずり下ろしたい欲望。

 

エゴと全く同一化しないことへの

腹立ち。

 

一緒に地獄に沈んでいたいから

そこに全くなびかない奴に対して怒る、

みたいな。

 

ポールへの投影は話したら

気が済んだけど、見終わった後も

自分の心の奥が怒っていて

ずっとイライラしていた。

 

なんで、怒ってるんだろ?

 

ポールへの投影よりも

もっと壮大なことへの

怒りっぽい。

 

私個人のこの細いコンパクトな人生を

捧げるのは良い。

(それもまだいやだけど)

 

でも、ポールのような

すべてを覆すような決断は

マズいって感じる。

 

この宇宙まるごと捧げるのは

聞いてないよ。

冗談じゃない。

 

「なにか」が本当に終わっちゃうじゃん。

 

私のこの大事な地球、宇宙は

終わらせたくない。

 

DUNE の中で

ハルコネン家(みたいな名前だった)の

スキンヘッドのボスが

「DUNEはワシのものだ」とか

「収益を搾り取れ」とか

言ってるのを見て、

というか彼の存在そのものが

私の心の底で鎮座してる感じ。

 

帰ってからも観たくなって

3回観てみた。

 

観るうちに登場人物が全員

自分の心のうちにいる感じが

してきた。

 

そして、砂漠も空も宇宙も。

 

で、ふと思う。

ポールは全体のことに気が

ついている。

前は、それが何か霊的に長けた

能力を得ている人のように

感じていた。

 

でも、なにもかも全てが

自分の心の内なら

全体で起きていることに

気がつくことは、

自然なことなのかも。

 

それを、

「いや〜、全体のことに

なかなか気がつけないんですよ

ね〜...困ったモンです」

と言ってるのは、やっぱり

しらばっくれてるってことだよね。。

 

今のところ、

ポールの決断や彼の全託の姿勢よりも

どちらかと言うと

まだ登場してない「皇帝」や

あのハルコネン家ボスの

この宇宙への飽くなき

夢見維持の欲望に

「おおぉ、、、」と

心の内で注視している感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年1月葉山合宿(振り返り)

スタジオ作り。

カメラ関係はもともと興味なかった。

去年秋ごろから順ちゃんが

「みんなを撮るようになっていく気が

する」と言ってたけど、

へぇ、そう。。くらいに

ひとごとにしか思ってなかった。

 

12月三崎口リトリートでは、

「自分事として自分達で撮る」意識が

みんなの中に芽生え始めたように

思う。

 

そして、今回の合宿準備は

料理ミーティングはほぼゼロで

スタジオセットアップ関係を

自分達でするための

ラファエルのレクチャーが

数回に渡り始まった。

 

けんちゃん、まーちゃん、

順ちゃんはエクスパンションして

いて、楽しそうだったけど、

私は「まぁ、特になんも。。

イヤもないけど」な感じ。

 

振り返るとスタジオ準備に

のりこさん家に行った時は

みんなのエクスパンションに

引っ張られて、気持ちが引き上げられ

ていた瞬間もあった。

 

でもミーティング後半は 

疲れてしまったり、

私いなくてもいいんじゃないか、とか

私いない方がいいとか闇が上がったり。

 

ただ闇はどうあれ、

全体のために

できるだけ邪魔しないで

心身共に使われたいという

気持ちはあったと思う。

 

12月三崎口でのリトリート前に

ラファエルから、

私達は祈りとコミュニケーションに

心を注いで、あとはジーザスに

成さしめられるに任せて、

何が明らかにされるか見せて頂くだけ。

これはジーザスによってなされる

実験なんだというような話があって

それが今も心で響いてる感じがした。

 

だから、

疲労感で集中がとぎれて

グダグダしてきたり

「めんどくせ。。」みたいな

考えがよぎると、

何ができてもできなくても

その祈りの中にダイブする

イメージを繰り返してた。

 

合宿前日は緊張と不安。

現場に2回入って準備は

してきたけど、

最初にカメラスイッチする係は

務められそうになかったし、

祈ってもガイドされてるように

感じなかった。

無価値感。。

 

みんな未知なことなのに

エクスパンションしながら

前向きなことにすごいなと

思ったし、

特に楽しんでいる様子の

まーちゃんにはなんか

説明がつかないような

心を揺り動かされるような

ものを感じた。

子供みたいでいーんだよー。

オトナでいなくていーんだよー。

と言われてる?

 

みんなが背中見せてくれたおかげも

あって、2日目に実際にその係をした

とき、いつもと違うことが起きた。

 

開始時間が遅れていて、

少し焦りを感じていたとき、

ズーム越しに田辺さんが

拝んで祈ってるのが目に入った時

ありがたくていつになくジーンとした。

 

拝んでる田辺さんは別に

珍しくもなんともなくて

普段だったら何も感じない。

 

なのに、そのときは

温かいものに満たされて

光を感じて胸が感謝で一杯になった。

 

しばらくしたら、

ああ、ジーザスについていくだけで

いいって、なんて安心で安全で

しあわせなことだろうとうれしかった。

 

途中、スイッチングが

マズかったなと思ったりも

したけれど、

みんなの方に目を向けると

全員が美しく、光を感じた。

この機会に関われて嬉しい。

 

そのことをそのファンクションを

終えてシェアしたとき、

のりこさんから、

コンフォートゾーンから出て

未知なことに身を捧げたとき、

そこに最初からあった光や愛に

気がつくことができる、という

ような話をされた。

 

あいかわらず

私は何もわかってないけど、

それでも、しあわせを感じた。

 

合宿中、ラファエルから

カメラ関係のレクチャーも

追加であって

今までの撮影がどんなに

人間技じゃ無理だったのかも知れて

なおさら感謝が湧く。

 

合宿から帰ってきて、

藤井風くんの曲を聴きまくって

エクスパンションし、

ずっと幸せで朝まで

寝付けなかった。

 

真の意味で、私は生きたい。

そうなれたら、と強く願う。

 

藤井風くんのMVの

ビハインドシーンを観たとき、

何げなく、どんなカメラで

どんな風に撮ってるんだろうかと

興味を持ってそこに目を注いでいる

自分にちょっと驚いたし、

面白かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022.1月葉山合宿(振り返り)3

「真我なるハート」では

4分裂理論を学ぶことが

ものすごく赦しの助けになるので

それがベースになっているけれど

それに匹敵するんじゃないかというくらい

のりこさんが話してくれた

「私たちは毛穴みたいなもんだ」の

比喩が私にはツボにハマった。

個人の私たちのキャラが毛穴で

心が身体だと例えると

すごく分かりやすい。

 

 

私は肉体、あなたも肉体、

彼女も肉体・・・として

見ると

「あの人は〇〇なのに、私は

そうじゃない」がめちゃリアル。

 

その比較の中で苦しんでいたのが

私たちのニセの姿を毛穴に

例えると、その比較が滑稽に思えて、

粘着質な「この差異はリアルで

実在してるんだよ!」の自分の言い張りが

爽快なくらい剥がれる。

 

毛穴同士で争うだろうか。

毛穴同士で優劣つけるだろうか。

あの毛穴の方が癒されていて

自分の毛穴は癒されてない、なんて

おかしい。

 

毛穴で癒しは起きていない。

 

ワンマインドでしか癒しは起きていない。

心は一つしかない。

 

アスカ(毛穴)に心はない。

〇〇さん(毛穴)に心はない。

 

そうすると

肉体が離れているかのように

見えることもリアルじゃない。

 

離れて住んでるかのように見える

親、元旦那、息子・・・。

 

でも、私が手の甲の毛穴で

彼らが足の甲の毛穴だと

例えるなら

「私たち、分離してる〜!(泣)」

ってなんか変。

 

やっぱり心で一つなんだと

ありありと思い出されて

私の中が崩れて

溶けていくような実感がある。

 

この比喩は本当に助けになります。

ありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022.1月葉山合宿(振り返り)2

『私は無価値だ!祭り』に

どんだけ魅了されているか、

好きで自作自演やってるのか。

 

私が間違っていたい。

この言葉もどこか今まで

「私の記憶は正しいけどね、

解釈が間違っていたい」だったけれど、

 

「私たちの記憶も本当に

あてにならないよね」と

帰ってきてから、なおちゃんと話す

機会があった。

 

実際、合宿中に私の目から見て

「ほら、私、愛されてないじゃん」と

思った場面をワイドカメラで

撮影された映像で後から見てみると、

何も起きてない。。。

私が一人で勝手にひねくれていただけ。

 

ハァ〜〜〜〜・・・。

ため息。

 

まじで捏造じゃん。

 

 

むしろ、全面的に愛として見られる

方が居心地が悪い。

けんちゃんにランランした瞳で

「力強いプレゼンスを感じる。

弱々しく見せてるのはニセの演技だね」的な

ニュアンスのことを言われた時、

明らかに彼の目はアスカの殻ではなくて

「奥の本体」を見ている感じが

あって、その視線から

逃れたくて仕方なかった。

 

あ〜〜〜!

お願い!そんな目で見るくらいなら

投影してくれええ!

エゴとして見てほしいと

いう強い思いが湧いた。

 

その時の居心地の悪さは

フリーズするような

照れくさいような感じで

その時は言語化できなかったけれど

 

「え〜っと、誤魔化すには

どのエゴマスクつければいいかな〜」と

心の中でゴソゴソしてる感じだった。

 

私は傷ついていると

正当化していた中に

「仲間達から、私だけまともに

実践できてなくて

エゴまみれの行為者として

ジャッジされて見下されている」

というのが定番としてあった。

 

だけど、

そう見られることを

めっちゃ望んでいるじゃん、と

はっきり見せてもらえて

それはとてもありがたかった。

 

これを辞めていけることは

本当にありがたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022. 1月葉山合宿(振り返り)

12月のリトリート後の折れた精神状態を思えば

1月の合宿やその準備に、その時の精一杯で

参加し関わることできたことは奇跡のように思う。

見捨てられてなくてありがたいと思うし、

歩みをストップさせなかった自分を

最大限認めてあげたい。

褒めてあげたい。

よく意欲を差し出したね。

頑張った。ありがとう、自分。

そして、みんな。

 

帰り道、まーちゃんとなおちゃんと

「みんなが抱えている闇が

金太郎飴みたいに同じだったね」と。

確かに異口同音って感じだった。

 

自分が無価値に値する証拠探しを

一生懸命している。

しかも喜んで

人の話を蹴飛ばしたり

ねじ曲げて捏造している。

 

私の場合はっきり見させられたのが

初日、かなり自己卑下と無価値感

まみれでエクスプレッションした時だった。

ラファエルに「心の準備ができてるから

そのようなことが起きているんだよ」

のりこさんからも「良いプロセスの

中にいるんだよ」というニュアンスの話を

されてるのに、急に言葉尻を捕まえて

別の話をしたい衝動にかけられて

話し出していた。

 

ラファエル、のりこさん、ポカーン。

のりこさんから指摘されたから

「あ〜!確かにそんなことしてる!」

と気がつけたけど。。

「私が無価値であることが正しい!」

それをここでお披露目させろ!と

息巻いてる自分をくっきり見た。

 

 

カメラの切り替えコントロールする係に

ついた時も。

つい話に聞き入ってしまって、切り替えが

遅れて、のりこさんに突っ込まれた時。

 

お約束みたいに無価値感を感じたけれど

それ以上になんか・・・

喜んでるみたいだと思った。

「腹一発目殴られて、あー、安心」って

言葉が浮かんだ。

(腹は別に殴られてないけど)

 

無価値だと証明できたぞ!って。

 

みんなから少し離れた場所で

薄暗い中、一人でするファンクションだったので

それが余計浮き彫りに見えたのかもしれない。

 

仲間達も「頑張ってるね。よくやってるね」と

周りから実際に声をかけられ、

励まされてるのに、

そこが何故か記憶から消去状態になっていて

「どうせ、できてない。

あの人はできてるのに。

あの人は癒やされてるのに・・。

私だけは・・そうなっていない」系のことを語る。

 

え?

さっき認められていたよね?

あなたは愛されているよ。

どうしてその解釈になってるんだろう。

 

みんな似たようなシェアをするので

「私もこれをやってるってこと?

・・・そうらしい」と感じられてきた。

 

夕飯時に、

どうも私たちは

I'm not enough festival

I'm unworthness festival

(私は無価値だ祭り)が

大好きなんだね〜!!

太鼓ズンドコ!

神輿わっしょい!

イエ〜〜〜イ!やってるね!

と全体で認識が起きて

みんなから笑顔が溢れたとき、

 

あ〜。

またバチを持って太鼓を

叩き始めようとしてるよ。

その瞬間にいつも気がついて

それを「もうええわ」って

やめていったら、すごいんじゃないか。

 

それ、やってもいいかも。

というか、ぜひやっていきたい、と

心底感じた。

 

去年3月にも、どんだけ自分が

被害者でいることが大好きで

それが初期設定になっているか

勉強会で体感を伴って教えられたけれど

合宿でみんなで同時に共振するのは

本当に力強くて、ありがたいことだと

胸が熱くなった。

 

 

f:id:japanshingaheartofgod:20220207192719j:image