献身について。

 

どれだけ心よりも形態レベルに

こだわっていたのか見つめている。

 

あるイメージが湧いてきてた。

 

今、ラファエルが撮っている映画が

映画祭で上映され、献身チームの

皆がそこに笑顔で集っているのに

私だけいない映像。

 

その映画で私だけが全カットされて

エンドロールに私の名前だけが

載っていない映像。。。

 

虚しい。悲しい。

、、、、。

 

日本家屋での撮影に

私は呼ばれなかったという

赦しのレッスンを通して。

 

これは必然だったのだと思う。

 

立ち止まって見つめるには

どうしても必要だった。

 

どれだけ自分の爪痕を残したくて、

承認欲求から名を残したくて、

自分が存在できているんだという

ことを証明したくて、献身という

名を借りていたのか。

更に露わになった。

 

リトリート、勉強会、

献身チーム、翻訳チーム。。

唾をつけておかないと悶絶する

くらいの執着。

それを聖霊に明け渡したい。

 

勉強会もそう。

ほぼ皆勤賞であることに

価値を見てた私。

お局的な、なんらかの

ポジションを得てると

勘違いしていた私。

そのワタクシが、

撮影に関われていないことに

対して、侮辱されたと

自我がつぶやく。

 

どれだけ自分の好みの

献身をしたがっていたのか。

スポットライトの当たる

ポジションを欲していたのか。

自分のアピールになるのか。

自己顕示欲、そればかりだった。

 

もちろん、真に献身したいという

聖霊経由の純粋な想いもあるが、

とにかく形態レベルに固執し過ぎ

ている。

 

自我は、ハズされて献身させて

もらえない。と言う。

お前は要らない、金だけ寄付しろと

言われてるような気がする云々。

被害者意識が出る。

 

なんで私は特定の形態レベルに

関わらないと献身できてないと

考えてるんだろう。

 

献身は聖霊に聞いて、常に今、

なんじゃないのか。

 

その言葉を本当に聞く気にやっと

なったような気がする。

抵抗はありまくるけれど。

自分満足ではなく。。

 

もし今回の日本家屋の撮影に

私が呼ばれ、例えインタビュー

されても、次の聖霊の計画で

外されたら、その度に一喜一憂するのか?

 

そんなの間違いだし全く幸せじゃない。。

惨めだ。

 

そもそもそのような姿勢で

献身と言うのを改めたい。

引き下がり、分離の欲望からの

偽りの献身をやめたいです。 

 

 

聖霊、ありがとうございます。