やっと刺さった

昨日、今日と2日間の葉山リトリート。

 

私はリトリート中、たいてい

やさぐれが隠せなくなってくる。

 

2日目の終盤、

 

どうせ目覚められないんだったら

こんなリトリート何百回やったって

意味ないじゃん!と苛立って言った。

 

進歩を感じられないことへの怒りや

焦り。

 

のりこさんによると

2013年から2016年の私は

大きく変化したらしい。

 

でも、2016年からはずっと

変化が見えにくく不思議なんだと。。

シェアの内容が変わってこない。

伸び悩んでいる。

 

無意識に気にしていることを

ストレートに指摘された。

恥を感じる。

 

そしてひとつ大事なことを教えてくれた。

私は、「ダメダメな実践者なんです、

無価値感に常に触れています」と

言いながら、その下をめくると

猛烈な競争心を隠し持ってると。

 

2016年の半ばに自我の叫びとして

「一度でいいから神に勝たせてくれ!」

という想念があることをシェアした

ことがあって、

それと同時に、覚醒が自我の消滅では

なくて、自我の私が覚醒を達成して

パンパカパーン!おめでとう!と

ファンファーレが鳴り響くイメージで

いた勘違いを打ち明けていた。

 

なんと。

私はまだそれを保持したままだと

いうことを知らされた。

 

「それを隠し持ったままで

進歩って無理だよね。」

と、のりこさんが言う。

 

ほんとだ。。

本気では明け渡してなかったみたい。

もう本当に保持していたくないと

思った。

 

近頃の私がのりこさんから

言われることはほぼひとつで

それは、

あなたは自分がいるって

本当に信じてるね、ということ。

 

今までは、それを侮辱されたように

感じて、

俺様はいるんだよ!という言い張りを

自分の中に感じていたけれど

今日は違って

「自分が存在しないこと」を

受け入れる気になった。

 

初めてかもしれない。

 

そしたら自分が真空に吸収される

ような、深い平安を感じた。

行為者ではない場所。

神の内に休らう場所。

 

 

今までは、ただ概念を

表面的に言っていたみたい。。

 

 

自分が思っているような私は

本当に存在していたのか?

 

そしてそれは存在していなかった。

それを受け入れたいと意志するとき、

私への同一化が剥がれる。

 

 

「私」がいると

言い張っている限り苦しいし、

行為者のままだ。

行為者から離れられない。

何者かになろうとしてもがく。

 

本当にやめたいと思った。

 

そして私が存在しないことが

とてつもなくありがたいことに

感じた。

 

これをしっかり忘れずに

なじませていきたい。

 

ありがとうございます。