映画の字幕入れも

息子と義母の課題を突き付けられた

ように感じてからは止まってしまっていた。

 

やっと再開したけれど、

エクスパンションはわずかだ。

 

動画の中の自分の発言への

投影がひどい。

 

長げええ!

 

そりゃ、仲間から長いって

言われるわ、って初めて

被害者気分じゃないところで

聞けた。

本当に、今まで辛抱して

聞いてくれてすまなんだね、

ありがとねと思った。

 

同じことを微妙に言い回しを

変えて繰り返し話すもんだから

翻訳が手間取り、動画の中の自分に

イライラする。

 

翻訳がめんどくさくなるだろ!

簡潔に言ってくれよ!自分!

それ、さっきも聞いた!

しかも、内容全然たいしたことない!

 

は?

今、見ると何言っちゃってんのよ!?

ハズかし過ぎ。

 

これ、英語の字幕を入れて

ラファエルに何を言ってたか

はっきりバレるのがすごく

嫌で、メッセンジャー

それを伝えようかとよぎった。

 

でも、動画の自分の発言や

自分の存在を指さして

ギャーギャー裁いてるのを

聞いてるうちに

これを

自分を赦すのが仕事なんだと

思えてきた。

自分ではできないから聖霊

お願いする。

 

静岡の動画を見てて感じたこと。

このころはけんたさんへの

葛藤はそれほどなく連帯感もあったのに

7月から、そして9月の三崎口を経て

投影がかなり重くなって

自分からは連絡を全然取りたくなくなっていた。

 

私の言い張りは、

これだけ合宿や撮影でコラボしてるのに

去年7月以降は連帯が深まるどころか、

分かり合えない。

関われば関わるほど、自分の存在を精神的に

雑に扱われているような知覚、

嫌われてるように感じるし

嫌いになっていくという怒りと失望、

無価値感を強く感じていた。

 

赦しはするけれど、ムカつくから言い張りを

手放したくないという粘着質も感じていた。

なんでこんなにも執拗なんだろうと思っていた

けれど、三崎口でものりこさんが

指摘したように

けんたさんに投影するのは私にとって楽なのかもしれない。

それを煙幕にして、本当に見たくないものを

見ないようにするために(例えば息子への

罪悪感を見るのが痛すぎて矛先を向ける)

けんたさんをサンドバッグのように

利用しているのかもしれない。

 

そういう兄弟の利用の仕方をしていること

について、聖霊に助けを求めたい。

 

静岡の動画で、どう翻訳したらいいか

迷っていた単語があって、それについて

けんたさんに相談すべきだというガイドを

感じた。

最初は抵抗したかったけれど

いつまでそこに引っかかっていることを

望むのかと自分に問いかけたら

超えたいとハッキリしたので

約4か月ぶりくらいに個人メッセンジャー

メッセージを送った。

 

短いエクスプレッションもしたら

結果的に閉ざしていたところが、少し

風通しが良くなって、

彼のエクスプレッションも聞くことが

できて、やっぱり何が出てきても

仲間と超えていきたいと改めて

思い直すことができてホッとしてる。