今月の勉強会で自我の打ち砕かれが

「あんなに痛いとは・・・!」と

話したけれど、

 

この前、のりこさんがその後の勉強会で

「これを話すと、またれいさんが

怒るかもしれないけど・・」と

言ってるのを聞いて、何だか

今はそこまでじゃないな・・と思った。

受け入れたというか諦めが起きたのか、、な。

よくわからない。

 

激烈、痛かったのは確かだけど

そういや、死んでない。

この学びをやーめた、とはなっていない。。

 

今月の合宿にも一応、参加する。。

 

死にはしない、

案外、大丈夫なのかもしれない。

 

自分にとって、耳の痛いことを

はっきり言ってくれる仲間達の

そばにいることはすごく大事なことだ

ということはますます腑に落ちてる。

一歩一歩降参するために。

自分を真の幸せのために連れて行くために。

嬉しくはないけど、全然。

 

正直、アスカはそんな頻繁に

打ち砕かれたいと思ってない。

もう勘弁してくれええ!やだ!

そこそこやれてる感じで

気分良ければそれでいいんだよ。

 

だけど、それだとかえって苦しい。

というか、「そこそこやれてるんじゃない?」が

ただの盲目で結局ズタボロを見ないだけで

にっちもさっちも行ってないことだけが

明るみになる。

 

病気をほったらかしても悪化するだけみたいに。

だったら、プロセスは多少痛くても、闇でも

最終的に完治する治療を選びたい。

それしか平安はない。。

 

もうずっといつも

激怒と罪悪感が煮えたぎってる場所を

感じ続けてる。

それが浮き上がってる。

 

今月の合宿の準備中も

ほぼ闇ばっかりだ。

無価値感と悲しみ。

 

「私、いなくていいじゃん」

「私はいないほうがいい」

「だーれも困らないよ、いなくても」

「邪魔なんじゃない?逆に」

「ほら、ずっと行為者じゃん」

「しゃべんな、自分」

「チューニングする気がない。したくない」

「今月の合宿も醜態晒すだけだ」

ずっとこれがリフレインする。

 

「あ」と声が口から漏れるだけで

なんか「やっちまった。するべきじゃなかった」

って罪悪感と憎悪を感じる。

 

失敗を恐れてる。

本当に自分が誰かわからなくて苦しい。

それでいて

本当の自分が誰なのか聖霊

教えてもらうことにすごい抵抗を

感じる。

答えを受け取ることに、

「いやです、いいです」と言ってる。

 

その自分丸ごと、押しやらずに

「あんた、そこにいていいよ」と言って

聖霊の光の中に入れる。

助けて欲しいです。

 

それしかできない。

 

自分を慈しんであげたいと

すればするほど

逆の思い「自分、死んでろ」が

津波のようにくる。

 

そして仲間たち全員に助けられているし

リードされている。

それがありがたくもあり、

まだ悔しいと感じる。

 

負けたくない。

 

この「負けたくない」が苦しい。。

 

負けて、それを受け入れて

楽になる方を選びたい。

 

 

疲れた。

 

 

不幸を幸せだと勘違いしてしまってる

自分を救いたい。

 

さっき順子さんのブログを読んで

「ああ、そのために私たちは

これをしているのか」と色々教えてもらえて

心に光を感じた。

 

わかってなかったな。。

 

教えてもらえてありがたいのに

同時に悔しくて悲しい。

 

私が先に知っていたかった。

私が先に歩むものでいたかった。

 

欠乏しまくり。

 

この思考が「泣き叫び」なのではなくて

私そのものが泣き叫びなんだね。

 

本当、そうだ。

ボロボロだ。

 

救われたいと切望してる私と

救われるもんか!と激怒してる私

両方まるごと祈りの中に捧げたい。

 

自分に

「ありがとう。よくやっているよ」と

声をかけると、泣いてるのと

鳥肌立てて「ひいいいい」と

悪寒を感じるのを両方感じる。

 

冷え切っている自分のことを

芯から温めてあげたい。

 

聖霊、どうか私と私である兄弟たちが

誰なのか答えを受け取ることに

心を開く勇気と覚悟を持てるように

どうか助けてください。

 

ありがとうございます。