Xについて IFP(心の平安のための道具)

前の記事を書いて泣いた後、

身体がダル重くなり、

早めに就寝した。

 

翌朝は、凄まじい怒りと

殺意で目が覚めて

ほぼ一日中

あの野郎、あの野郎、

ぶっ殺してやるという

感情の渦。

 

心の中に

“好きで好きで仕方なくて、、、”と

流れたとき、とてもメロドラマだなと

おもった。

 

彼との関係性で、代表的な感情が

嫉妬と執着心。

 

嫉妬で泣くことを繰り返してきて、

ふと嫉妬するメリットって私にとって

何だ?と浮かんだ。

 

ドラマや登場人物をリアルにできる。

犠牲者という独立した主人公感を得れる。

 

 

私がXが今、日本で一緒に献身していないことについて考えるとき、

寂しい、裏切られた、嘘つき、十分に

愛されていないと感じる。

 

なぜなら、Xの意欲の低さ、決断力のなさ、貫き通す意志のなさが責められるべきであり、

未来に彼との接点を完全に失うことが

起きることを恐れているから。

 

Xが奥様と一緒にいることについて考えるとき、嫉妬、惨めさ、侮辱、恥をかかされている、都合よく利用されている、私は2番目なんかじゃないという不満という感情を感じ、私が真のパートナーであり、私が唯一愛されるべきであり、私に対して常に誠実であるべきであり、それを果たしていない彼が責められるべきで、未来に私が完全に忘れ去られることが起こるのを恐れている。

 

これらのことは、バラバラに分離した人間たちがたしかに存在し、私が孤立した愛に飢えている欠陥人間であり、常に私を愛してくれる特別な肉体存在が必要だという不足の信念ということについて正しいことを証明している。

 

私は今の感じを好まない。なので、今私が知覚していることが本当のことではないという可能性を考える準備ができている。癒しのプロセスの1部として私は(自分がそれに与えた意味である)この嫌な気持ちを超えてみることそして心の内側を見ることを意識する

可能性を考える準備ができている。癒しのプロセスの1部として私は(自分がそれに与えた意味である)この嫌な気持ちを超えてみることそして心の内側を見ることを意志する。

 

私は以下の事象の中で私が演じている役割を罪悪感なしに見ることができるということを学びたい。

私は奥様について考えるとき、私と違って彼女はまともな妻であり母であり、若くて美人で性格も良さそうで劣等感と後ろめたさ、嫉妬という感情を感じ、私に愛情を示しながら家庭を維持している不倫男Xが責められるべきで、未来にもし私と一時的に彼が一緒になっても奥様を失ってみて彼女の素晴らしさを再確認、彼女の元に戻ることが起きるのを恐れている。

 

これらのことは私が出来損ないの欠落人間ゆえに途中で見捨てられるという不足の信念を証明している。

 

私はその代わりに幸せであることを望む。自我の歪んだ見方考え方を通して、私は自分の嫌な気持ちの原因とその解決法が心の外側にあると知覚している。私の投影は非常にリアルに見える。その目的は心が内側を見るのを妨げることだ。

 

もし私の嫌な気持ちの原因と解決が心の外にあるのだとしたら私は自分の心の状態を変えることについて実に無力と言うことになる。私の投影が私が無力さを感じる理由であり、私が満足するような愛し方をしない彼や、未来に彼を失うこと、見捨てられることが起きることを恐れていることが私の嫌な気持ちの原因のように見える理由である。

 

もし例え日本に来たとしても、別の女性たちに心変わりしたり浮気するかもしれないと考えるとき、怒りと不安、心配という感情を感じ、浮ついたバカな彼が責められるべきで、私は将来彼からの愛情、関心を失うことを恐れている。

 

これら全ては、バラバラな人間たちがたしかに存在し私が愛に飢えた孤立した人間であるため常に外側に愛を補給してくれる特別な存在が必要だという私の不足の信念の結果としてあらわれたものだ。

 

私が誰かや何かに対して嫌な気持ちになる時それは彼らが私自身が自分の中に見ることを否定した信念を映している時だけだ。私がこの世界の何かを責めたり恐れたりする時それはいやな気持ちとその解決法をあるがままに見ることを妨げるためでありその代わりに自分が望む自己概念や他者世界のイメージを持ち続けるためである。

 

この心のトリックは罪悪感や恐れをどこかに移し変えるように見えるが実際には嫌な気持ちを維持し続けることになる。自己概念や他者のイメージを責めたり恐れたりする事は自分が肉体に制限された肉体の世界の住人であり本当の私自身であるスピリチュアルな抽象性の否定を必要とする。嫌な気持ちを手放すための最初のステップとして自分の外側にあると思っていたものを自分の心の中に見えることを私は望む。

 

彼が私と一緒にいないことについて

嫌な気持ちになるということは

責められるべき彼や、特別に愛情や関心を

注いでくれる存在を失うことが私の罪悪感や恐れの原因であることにしようとする1つの企てに過ぎない。

 

嫌な気持ちになるということは

彼が今私と一緒にいないことが

私が求めていることに反する時価値があってもっともなことのように見える。

 

私が求め、期待しているのは、彼が私と同じかそれ以上の意欲で私と一緒に日本で献身し、なおかつ私を特別に愛し続けてくれることだ。

 

私はまだ愛に飢えた出来損ないの欠落人間だと信じているので私が幸せになり完全になり平安になるためには彼が私と同じ意欲で私と一緒に日本で献身して、なおかつ私を特別に愛し続けている事が必要だと考えている。

 

この不足の信念とその結果として現れる期待、欲望は私にとって心の平安よりも重要なものだろうか。

この世界の全ての物事は一緒になって私にとっての良きことのために働いてくれる。私が私の嫌な気持ちの原因だと考えていたものは全くそうでなかった。嫌な気持ちになると言う選択はその真の原因今現在心の中で下されている決断である論理と不足の信念を見ないと言う選択だそれは原因が過去未来にあり現在はその影響下にあるとみようとする企てだ。

 

今この瞬間私が何にもまして求めているのは心の平安だ。なので私は自分にとってのただ1つの目的である心の平安と再びつながるために愛に飢えた出来損ないの欠落人間と言う信念に疑問をていし、自発的に彼に日本で私と一緒に検診し私を特別に愛し続けて欲しいという欲望を手放す。

心の平安とは今この瞬間感謝の中で下すことができる決断だ。重大な罪悪感や恐れがあり得るように見えたのは私が過去や未来に原因があると言う信念にすがりつくと決めたからだった。私は自分が過去未来に与えた意味を手放し解放され無垢である今に対して心を開く。

 

私は今まで自分の外にあると思ってきた自分の嫌な気持ちの原因を認識できたことに感謝する。実はそれは心の中の問われていない信念と決断だった。私は私自身の心の平和のために新しい決断を下した。

 

最後のプロセス

問われていない信念と欲望を見つけたらそれを自分の力でどうにかすることができないなぜなら自分は自分で作った現実を現実だと信じることしかできないから。なので最後には意志を捧げることそして祈ることしかできない。私はこのことについて自分が間違っていることを望む。どうか私が間違っていると言うことを見せてください。