何もしない献身

ラファエルが現れてから

当たり前のように、

献身チーム内で飛びかうように

なった言葉。

 

ファンクション。

 

私はまだこの言葉に

喜びを感じきれない。

 

本来、癒しを受け取る機会で

ジーザスはそれを楽しんで欲しいと

思っているみたいだけれど、

緊張するし、身構えてしまう。

 

ファンクションすると

己の無価値感や無能力感を感じ、

ファンクションしなくても

あの人の方が能力があって

私はダメで値しないから

与えられてないんだと

卑屈になり、ずっと

苦しんでたように思う。

 

聖霊に聞いて従う。

「聞く」ことも私は

理解していなかった。

 

自分で決めた前提があって、

それはファンクションを

しないという選択肢はない、

というものだった。

 

そのファンクションは

しなくていいよ、とか

他の人に任せなさい、という

ガイダンスはのりこさんとか

カースティンくらい

とても進んでる人向けのもので、

私対象ではないと決めつけていた。

 

 

やればやっただけ救われるから

やったほうがいいに決まっている。

やらないとか与えられないなら、

それは私がだめだからなんだ、という

信念を手放す気がさらさらなくて

強迫観念的に握っていた。

 

だから

お料理ファンクションチームに

いながら、料理提供すると手を

挙げないでいたSちゃんには

かなり前から注目していた。

 

そのうち、 声明するだろうと

思っていたけれど、

期日が迫ってきても沈黙のまま。。

 

みんなが次々と料理リポート

していく中、ひとりじっと静かに

してる心境はどんなものだろうと

とても興味深く思った。

 

きっと聖霊に耳を傾け続けて

いるに違いない。

だけど、私がその立場なら

とても落ち着かない気分に

なることは容易に想像できる。

インスピレーションよ、

降りてこい!と必死になると

思うから。

 

それで、ある時、私から

聞いたのかは思い出せないんだけど、

彼女から「料理のガイダンスが

来ない」と聞いた。

他の兄弟から、やってみないかと

打診もあったらしい。

でも、「来ない」ので手を挙げなかった。

そして、それは最後まで来なかった。

なので、彼女からの料理提供はなかった。

後日、一人分空いている

そのファンクションはちゃんと

采配されて埋まった。

Sちゃんは「やっぱりね」という感じで

笑った。

 

 

私は、とても新鮮な驚きを感じた。

 

これはビーチフラッグなんかじゃ

ないんだ。。。

競争じゃないんだ。。

 

頭では理解してたつもりだったけれど

心はそうじゃなかったことが改めて

浮き彫りになった。

 

ひとりひとりの、心もバラバラな行為者が

ファンクションしているという見方から

ひとつの心がファンクションしている、

円になっていて、分離しているかに

見える個人は見せかけで、適材適所に

采配されているという見方が 入ってきた。

 

それは光のように感じられた。

そして、脱力が起きていった。

 

それでいいんだ。。。

 

聖霊に従い料理を提供することも

献身で、聖霊に従い料理を提供しない

ことも献身なんだ。

 

本意が正しく伝わる文章

じゃないかもしれないけれど。

 

私は聖霊のガイダンスを

受け取るまでは忍耐強く動かない

Sちゃんの心の姿勢にとても感謝した。

 

強迫観念が剥がれて

とても救われたように感じた。

 

あなたはしなくていいんだよ、という

ガイダンスがあり得るということに。

 

その根底にある大事なメッセージは

あなたは愛されていて、価値があるんだよ

ということが感じられた。

 

この一件があってから

もっと力を抜いてガイダンスに

耳を傾ける意欲が増したように思う。

 

本当にありがたい体験だった。