最終日 三崎口

のりこさんのレポートを受け取って、真剣にこれについて自分の心を深く見つなければいけなかった。今までにないほど追い詰められていた。そして、胃はキリキリするけれど、ここまで来て逃げ出すことはできなかった。

のりこさんの言うように、保身をする必要性があると信じ続けていることが誤りだと聖霊に教えてほしい。

 

陽子ちゃんがズームで話そうと持ちかけてくれたとき、結果的に私の喉に手を突っ込んで胃から膿を出すということをしてくれた。

 

あれから陽子ちゃんとの録画を聞いたら、私はやたら「要するに〜」と言って、全然、要せていないことを話していて、逃げまくっていたけれど、陽子ちゃんがそこを本当に逃さないでいてくれた。

 

自分像が思い通りにならないことへの苛立ちやのりこさんが指摘してくれたように嫉妬している情けなさを自分にも兄弟にも隠して、直面したくない、都合の悪いことは忘れてごまかして今まで向き合ってこなかった。

 

ムービーチームが発足した2018年秋から私はのりこさんに見捨てられたと根底では思っていたんだけど、その時は控えめな表現で距離ができたとしか認めていなかったし、陽子ちゃんたちに対する強い嫉妬には気がついてなかった。

 

そういう伏線があって、去年、映画について私にもお鉢がまわってきて、自我的になんとしてもこれをものにしなくてはと「ジーザスのために」の裏にすごく野望があったと思う。
陽子ちゃん達に対する嫉妬を引き連れたままで。

 

真我なるハートの底上げをしていくという目的でのりこさんと祥子ちゃん、私の三人のメッセンジャーがあったんだけど、それもあって私はなにか皆の上に立ったかのような錯覚もしてた。

 

私が重要なポジションを取ること、嫉妬してる陽子ちゃんから話を引き出すことで自分が上に立つ、何かリーダーシップめいたこと、そしてそれができたんだと恥ずかしいけどあの三崎口の食事シーンで勘違いした。

 

前日の夜にはそのトリガーもあった。こたつのシーンで、けんたさんたちにシェアが長くて退屈と言われてからの2テイク目。自己陶酔して話していたし、そう言われても仕方ない。
でも、そのときは屈辱で2ティク目は目を開けていられなかったし、陽子ちゃんのシェアは聞きたいと思っていなかった。
目を開けたら、けんたさんが陽子ちゃんに良いシェアだったと言って好意的な笑顔向けていて、私は自分がないがしろにされてると悔しかったし、陽子ちゃんのことを引きずりおろしたいという気持ちがあったと思う。

 

それであの食事シーンを迎えた。その後に陽子ちゃんの一言やのりこさんに間違いに気づかされて、あまりにも都合が悪いことだったので、私はこのことを記憶から消し去った。

 

惨めな目的からあの大切なシーンでそのように動いてしまったことが本当に恥ずかしい。そういうことをしたと自分に認めることさえ陽子ちゃんがズームしてくれるまでできなかった。

 

すべてにおいて私がのしあがることや自己重要感を高めるためにこの映画やマイティコンパニオンたちを利用していたことが、この映画に関わることがどういうことか分かっていない現れだったし、同じミスを繰り返したくないという目的も保身のためだった。

 

のりこさんから最近、この数ヶ月で一番癒しの機会としてクローズアップされた人間関係は誰だったかと聞かれて、陽子ちゃんと祥子ちゃんと答えたの。もちろん、そこにはのりこさんもいる。

 

それは私にとって親と子、兄弟間にある競争心、激しい嫉妬、劣等感、愛情の獲得についての癒しの機会だった。まだ現在進行形であるけど。

これは初めてのことじゃなくて、私と弟との間でお互いが家庭を持つまで展開したことと同じだった。あれは終わった、解決したと思って振り返ることもなかったけれど、ああ、相手を替えてるだけで、ずっと繰り返し繰り返しやってるんだって。

全て好かれたい、認められたい、兄弟をあわよくば引きずりおろして、私が一番愛されたいが動機。

 

今は本当にこれが自分ではないこと、そんなことをする必要がなかったこと、聖霊に教えてもらいたい、癒されたいと祈ってます。そして、正直でいることを恐れないこと。
本当に正直でいることがなかなか難しい。自分に対してそういるだけでも。