異性に対する敵対心

 

小さい頃から異性に対する

敵対心は強かったと思う。

 

人気のある異性であればあるほど、

好きになってたまるか!

打ち負かしてやりたい

とどういうわけか心の中で

反発していた。

 

それがここ数ヶ月

Fさんに対して

そのような強烈な

投影が起きていて、

みんなに打ち明けていた。

 

彼が評価されれば

されるほど、どういうわけか

それに比例して私の何かが

剥奪されていくような悲鳴を感じた。

 

私は自分がここまで反応することが

違和感だったけれど、どうしようも

ない。

 

そして、リトリート中、ある兄弟が

Fさんに対して強い特別な愛情を

感じてることを全員の前でシェア

し始めたとき、

 

自我がショックを感じて

「彼に全員取られてしまう!」と

叫んでいて、絶望感が押し寄せて

きて、上体をまっすぐに起こして

いられないほど、ぐったりして

しまった。

 

すごく惨めだった。

自分の反応だけが

狂っていることに疲れてしまって

楽になりたかった。

 

神とのコミュニケーション障害が

わかりやすく反映されていたと思う。

 

反発よりも先にある隠しておきたかった

想いがあって、それは、

私は神から絶対に愛されない。

だから憎む。という泣き叫び。

 

言い張るためではなくて、

その間違いから解放されるために、

これから一緒に献身していく

仲間に対してこんな強情を

張っていたくない。

いつか話ができる機会を望んだ。

 

そして、リトリート最終日の朝

聖霊がお膳立てしてくれて

彼と話す機会が与えられた。

 

私はもう観念したかった。

幸い私の話を聞くことに

彼が心を開いてくれているのを

感じたので、口が開けた。

 

だんだんと自分にとって

話が核心めいたところに差し掛かると

笑いでごまかそうとする癖が

出始めたことに気がついて、

その一連も実況中継のように

話し、聞いてもらう。

 

首根っこに痛みを感じめた。

 

笑いで誤魔化すのをやめたい。

 

でも、やめるのが怖い。

 

死ぬみたいに感じる。

 

そしたら、直面したくなかった

耐え難い津波のようなものが

心に押し寄せてきて

大泣きした。

 

手で顔を覆って泣いていたので

Fさんは見えなかったけれど、

しばらくしたら手を握って、

背中をさすってくれていた。

 

そのさすり方は、

それは全てあなたの思い違い

だったんだよ。

大丈夫なんだよ。

よしよしよしよし。と

親が子供に諭してるみたいな

優しさに感じた。

 

表面的にはFさんと私の

関係性に起きてるみたいだけれど、

本当は神と私とのコミュニケーションに

起きていることで

親子の関係性に癒しが起き始めたのを

感じた。

普通なら負けたくない男性の前で

こんな大泣きするのは屈辱的に

違いないけれど、そういうふうには

感じなかった。

ありがたかった。

 

リトリートから帰ってきて

フェイスブック

写真がたくさんアップされていて、

その中にFさんのものもあったが

自分がそれに、超いいね、していたことに

大分経ってから気がついて

あっ!と驚いた。

 

しばらく心の中を探ったけれど

葛藤だとか反発が自分の中に

残っていないのを感じた。

 

とても不思議な気持ち。

 

すべては

自分の狂った思い込み

ということが深く入ってきて、

自分が間違っていることを

望む意欲が強くなったように

思う。

 

本当に兄弟たちに感謝している。